場面を見る
会話、沈黙、動きの変化を捉える。
Field Notes
DroRの第2章「土の話——半年のあいだに起きたこと」ページです。研究と実践を往復しながら、組織変革に必要な論点を整理します。
FIELD OBSERVATION
Field Notesは、COSの理論が現場でどう立ち上がりうるかを描いた創作の物語です。日常の相互作用に、変革の条件を見つける素材として読めます。
会話、沈黙、動きの変化を捉える。
何が起きているかを仮説化する。
個別場面を組織の条件として読む。
次の実践と観察へ接続する。
長谷川さんに「土・風・回路」の話を聞かされた、その次の週。五月の頭だった。会社近くの桜並木が、もう完全に葉桜に変わっていた。僕は社食ではなく、夕方の誰もいなくなった会議室の隅で、彼女と二人で話していた。
「土から始めたいんですよね」と僕は言った。
「そう言うと思ってました」と長谷川さんは答えた。
「何をすればいいですか」と僕がさらに聞くと、長谷川さんはちょっとだけ首を傾けてから、こう言った。
「朝、ひとこと聞くだけです」
僕はたぶん、変な顔をしたと思う。
「ひとこと、って」と僕が聞き返すと、長谷川さんは丁寧に説明してくれた。
「チームの朝会の冒頭に、ひとこと聞いてください。『昨日、誰かのおかげで助かったこと、ありましたか』って。一人ずつ、短く答えてもらう。五分でいい」
「……それだけ?」と僕がまた念を押すと、
「それだけです」と長谷川さんはまったく揺るがなかった。
正直に言って、がっかりした。半年もやもやして、ようやくこの人に相談する気になって、最初の処方箋が「朝、感謝をひとこと聞く」なのか、と。
「あの、僕の悩みって、もっと、構造的なやつ、というか」と僕が言いかけると、長谷川さんは僕を遮った。
「構造の話です、これ」
「え?」
「星野さんが感じてる『判断していない』っていう感覚は、星野さん個人の問題じゃないんです。星野さんとメンバーの十二人のあいだに、いま、ある種類の応答パターンが固まっている。提案が出る、星野さんが評価する、メンバーが追認する、進む。この流れが、毎日、何十回も繰り返されてる。これは、星野さんの意志の問題じゃなくて、応答の構造の問題なんですよ」
「で、応答の構造を変えたい」
「変えたいです」
「変えるためには、まず、いまの応答パターンの『手前』に、別の応答パターンを差し込む必要がある。会議の中で頑張って変えようとしても、無理です。会議に入った瞬間、もう既存のパターンが立ち上がっちゃうから。だから、会議の手前に、別の小さな応答の場を作る。それが、朝の五分です」
「……なるほど」
なるほど、と言ったが、半分くらいしかわかっていなかった。それでも、他に試すアイデアもなかったから、やってみることにした。
火曜日の朝、僕はチームの朝会の冒頭で、こう切り出した。
「今日から、ちょっと新しいことやってみようと思います。冒頭の五分だけ。一人ずつ、『昨日、誰かのおかげで助かったこと』を、ひとこと言ってみてほしいです」
十二人の顔を、僕は順番に見た。みんな、わずかに顔を上げて、僕を見た。誰かが「あ、はい」と小さく言った。誰かは、「了解です」とSlack的に答えた。
梶原だけが「いいですね、それ」と少し前のめりに反応した。梶原は、そういう人だ。
「じゃあ、梶原さんから」と僕が促すと、梶原は淡々と答えた。
「はい。昨日、綾野さんに、新規顧客のオンボーディング資料を共有してもらって、すごく助かりました。流用できる部分が多くて、半日浮きました」
「ありがとうございます。じゃあ、綾野さん」
綾野は、二秒ほど止まってから、「えっと、奥村さんに、Notionのテンプレを直してもらって、たすかりました」と答えた。短かったが、淀みはなかった。
みんな、フォーマットには慣れているのだ。
そのあとも、同じ速度で回っていった。「リンクを送ってもらった」「会議室の予約を取ってもらった」「Slackのスレッドをまとめてもらった」「設計書のレビューを早く返してもらった」——どれも、業務上の事務的な感謝。十二人ぶんで、ちょうど七分くらい。
終わったあとの空気は、悪くなかった。むしろ、いつもの会議の冒頭よりも、ほんの少し柔らかい気がした。
けれど、僕は何かが「動いた」感じはしなかった。みんな、新しいフォーマットに、すぐ慣れてしまった。それが、たぶん、僕の組織の特徴だ。
フォーマットへの適応が早い。早すぎる。
僕はその日、長谷川さんにDMを送った。
「やってみました。まあ、こなしてくれた感じです」
「はい、よくあります。最初は、こなされます。それで正しいです」
「正しい?」
「あと六週間、続けてみてください」
六週間...と僕はもう一度ため息をついた。
二週目も、同じ形式で続けた。
みんなのコメントは、相変わらず事務的だった。「ファイルを送ってもらった」「リマインドしてもらった」「修正してもらった」。
フォーマットへの適応が早いというのは、こういう場面では弱点になる。みんな、早く正解の答え方を覚えて、早く回す。早く回るから、何かが残らない。
一週間が終わったとき、僕はまた長谷川さんにこぼした。
「上滑りしてます」
「上滑り、というと」
「みんな、ぱっと正解の答え方を覚えて、ぱっと言って、ぱっと終わる感じです。早く回ってるけど、何も残ってない」
長谷川さんは、それを聞いて、例の5秒の沈黙に入った。視線が手元のペンで止まっていた。僕は、この人はたぶん、相手の言葉を一度まるごと受け止めてから返す癖がある、と、少しずつわかりはじめていた。
「いいですね、その自己観察」
「いや、褒めてほしいわけじゃ」
「褒めてるんじゃなくて、星野さん、自分のチームで起きてることをそう描写したのは、たぶん、初めてだと思います。『早く回ってるけど、何も残ってない』。それは星野さんが感じてる違和感の、いちばん近い言語化です」
ぐっとなった。
「これ、朝の五分だけの話じゃなくて、星野さんの組織全体の話ですよね」
「……はい」
「だから、朝の五分も、まずは、その『早く回るパターン』のなかに、いったん吸収されます。それは織り込み済みです。問題は、そこからどう抜けるか」
「抜ける?」
「ほんとうに、止まれるか、です。止まる場所を、どこかに作れるか」
止まる場所、と僕は反復した。
「五分のなかで、誰かが止まる瞬間が、たぶん、近いうちに来ます。フォーマット通りに『誰々さんに何々してもらって助かりました』って言いかけて、ふと止まる。『ああ、これ、本当に助かったな』って、そのときに小さく気づく。そうなったら、たぶん、そこから何かがほどけます」
「来ますか、それ」
「来る組織と、来ない組織があります。星野さんのところは、たぶん、来ます」
「なんでそう言えるんですか」
「星野さんが、こうして毎週ちゃんと自分の感覚を言葉にしようとしてるから、です」
僕は、そのときちょっとだけ、たぶん耳が赤くなった。
三週目に入る前の、たしか水曜日の朝だった。
月曜に入れる予定の資料を早めに仕上げたくて、僕は普段より一時間早く出社した。誰もいないフロアを抜けて、コーヒーを入れにいく途中、ロッカー室の奥から、かすかな水の音がした。
覗き込むと、長谷川さんが、一人で、霧吹きのボトルに水を詰めていた。小さなジョウロも、足元に置いてあった。
「……おはようございます」と、僕はちょっとびっくりして声をかけた。
「あ、おはようございます」と長谷川さんが振り向いた。
いつも通りの顔だった。ただ、髪は少しだけ寝癖がついていて、長谷川さんにも朝があるのだという、当たり前のことを、そのとき僕は妙に新鮮に感じた。
「……それ、なにしてるんですか」
「あ、植物です」と長谷川さんは答えた。「フロアのあちこちの、観葉植物」
そう言えば、うちのオフィスには、あちこちに観葉植物が置いてあった。入り口のモンステラ、会議室のポトス、窓際のウンベラータ。内装工事のときに誰かが買ってきて、そのまま置いてあったような気もするし、IT系スタートアップの意識高い系オフィスデザインの一環、と言えなくもなかった。
でも、誰がそれを世話しているのか、僕は、考えたこともなかった。
「長谷川さんがやってるんですか、あれ」
「うーん、やってる、ってほどじゃないんですけど」と長谷川さんは言った。
「朝、早く来る日に、ちょっと水あげるくらいです。誰もやらないと、枯れちゃうから」
「……BPOの業務に、それ、入ってます?」
「入ってないです」と彼女は即答して、少し笑った。
「でも、やっちゃうんですよ、なんか」
なんか——長谷川さんは、そのなんかの中身を説明する気がなさそうだった。僕も、それ以上は聞かなかった。代わりに、「おつかれさまです」とだけ言って、自分の席に戻った。
席に着いて、PCを立ち上げながら、僕は、この人は、たぶん、「なんか、やっちゃう」という仕方で、色々なことをずっとやってきた人なんじゃないか、と思った。
土を耕す、という言葉が、朝の光の中で、少しだけ具体的に見えた気がした。
三週目の、たぶん木曜日の朝。
朝会の冒頭、いつもの「昨日、誰かのおかげで助かったこと」を回していた。梶原、奥村、妻夫木、と短く回って、綾野の番になった。綾野は、口を開いた。「えっと、昨日、朝比奈さんから、急ぎのレビュー依頼が来て、それで——」
そこで、止まった。
二秒くらい、止まった。
「——あの、すいません、いま話しながら、ちょっと思ったんですけど。あの依頼、受けたときは、『大丈夫ですよ』って返したんです。
でも、正直、タイミング的に結構きつくて。一瞬、嫌な顔、したかもしれないな、って。
で、いま、朝比奈さんの顔見て、『助かりました』って言おうとしたら、その前に、一瞬、嫌な顔したこと、言っとかないと、ちゃんと助かりました、にならないな、って」
会議室が、少し静まった。
朝比奈が、少し慌てた顔で、
「え、あ、すいません、急ぎって、無理言いましたよね。全然、大丈夫だったなら良かったですけど、もし無理だったなら、そう言ってくれれば」と返した。
綾野は、少し笑って
「無理じゃなかったです、やれたから。ただ、『嫌だな』って一瞬思ったこと、なかったことにして『大丈夫です』って言ったのは、僕のなかで、ちょっと違うなって、いま、気づいただけで」と続けた。
朝比奈は、
「……ありがとうございます」と、少し神妙にうなずいた。
僕は、その十秒くらいを、じっと見ていた。
そのあと、いつものように回した。回したけれど、そのあとの十一人ぶんのコメントは、最初の二週間とは少し違う質感で並んだ。みんな、ほんの少し、言葉を選んで、置いていた。
会議が終わったあと、僕はノートに書いた。「綾野が、止まった」
夕方、長谷川さんに報告した。
「来ました。綾野さんが、ふと止まりました」
「やっぱり来ましたか」
「やっぱり?」
「星野さんのチーム、いちばん最初に止まる人、たぶん綾野さんだろうな、って思ってました。発言は早いけど、奥のほうで一拍置いてる感じが、ずっとあったから」
そういうの、見てるんだな、この人は。
「で、綾野さんが止まったってことは、これから二、三週間で、二人目、三人目が出てきます。それを、星野さんは、何もしないで、見ていてください」
「何もしない?」
「何もしない。フォーマットを変えない、声をかけて促さない、評価もしない。ただ、起きるのを見てる。それが、いまの星野さんの仕事です」
何もしないで見ていることが、仕事——これは、僕にとっては、久しぶりに聞く種類の仕事の定義だった。
それから一週間ほどして、奥村が風邪で休んだ。
奥村はチームのなかで、いちばん地味な役回りをしている人だ。議事録、日程調整、Notionの整理、ステークホルダーへのリマインド——派手じゃないけれど、奥村がいないと、チームの日常業務がいろんなところで詰まる。とくに、急拡大期に入ってからは、奥村がいないと、新規メンバーのオンボーディングが半分止まる。
奥村が休んだ朝、僕はいつものように「昨日、誰かのおかげで助かったこと」を始めた。
すると綾野が言った。「あの、ちょっとずれるんですけど、今朝、奥村さんがいないのに気づいて、いつも来てる日程調整のリマインドが、来てないんですよね。それで、あ、これ、奥村さんがやってくれてたんだ、って、いない、って気づいて初めてわかりました」
梶原がうなずいて、「わかる。奥村さん、地味にいろいろやってくれてるよね」と続けた。
妻夫木が笑いながら、「俺、こないだの新人オンボーディングも、ぜんぶ奥村さんに巻き取ってもらった」と言った。
朝比奈が「えっ、そうだったんですか? あれ、奥村さんがやってくれてたんですか?」と少し驚いていた。
——この会話、三週間前なら、絶対に起きていなかった。三週間前なら、奥村が休んだ朝、みんな「奥村、風邪か、大変だな」で終わっていた。助かっていたことに、そもそも気づかなかった。
奥村が帰ってきた翌日、朝の会で、綾野が言った。
「奥村さん、昨日の件で気づいたんですけど、いつも細かい調整、本当にありがとうございます。いないと、ほんとに回らないんだな、って思いました」
奥村はぽかんとした顔で、綾野を見た。二秒くらい、ぽかんとしていた。それから
「あ、えっと、ありがとう、ございます」
と、自分の言葉が見つからないみたいに、小さく返した。顔が、少し赤くなっていた。
僕はその場面を見ながら、思った。奥村は、自分のしている仕事が、見られている、って気づいたことが、たぶんなかったんだな、と。
会社が大きくなる過程で、奥村の仕事は、どんどん「あって当然のもの」になっていった。誰も悪気はない。でも、当然になった瞬間から、奥村の仕事は、誰の視界にも映らなくなっていた。
僕も、たぶん、見ていなかった一人だ。
朝の五分が、それを少しずつ、見える場所に戻している。
二か月目に入って、少しずつ、僕自身の視界が変わってきた。
今までの僕は、チームの会議を「自分が回す場」だと思っていた。議題を用意して、時間配分を考えて、提案を読み、判断する。司会進行と承認の役割が、僕の仕事だった。
でも、最近の僕は、会議のあいだに、ちょっと違うことをしている。みんなが何かを話しているあいだ、僕は、話している人じゃなくて、聞いている人の顔を見るようになった。
綾野が提案を出すとき、梶原がどんな顔で聞いているか。
奥村が進捗を報告するとき、妻夫木は何か引っかかった顔をしていないか。
朝比奈が新しい提案を出すとき、誰が前のめりで、誰がノートパソコンに視線を落としているか。
すると、見えてくるものが増えた。
先週、ある新規施策の提案の途中で、僕は、梶原の眉がかすかに曇るのを見た。彼は発言しなかった。発言しなかったけれど、眉が曇った。前の僕なら気づかなかったか、気づいても「いいね、進めよう」で流していたと思う。でも、この日の僕はこう言った。
「梶原さん、いま、なんか、気になったことがありそうな顔してたけど、どう?」
梶原はちょっと驚いて、「あの、えっと、はい、ちょっと、気になったことがあって」と言った。
言葉を詰まらせながら、彼は一分ほどかけて、自分の引っかかりを話した。それは、提案された施策の前提条件についての、小さくない指摘だった。
「この施策、たぶん、来期の優先度が変わるタイミングと噛み合わないんじゃないか」と。
部屋が、少しだけ静かになった。
提案者の綾野は、最初は「えっ、そうですか?」と少し焦った顔をしたが、すぐに「あ、たしかにそう言われると」と続けた。
妻夫木が「そこ、もうちょっと整理してから、来週もう一回出すのでもいいんじゃない?」と言った。
奥村が議事録に「持ち帰り検討」と書き込むのが、目の端に見えた。
会議の流れが、十五分だけ、本来の予定から外れた。会議は、その日、予定の時間ぴったりに終わった。最近では珍しく、十分早くは終わらなかった。
——でも、外れた十五分のあいだに、僕は、判断していた。
夕方、長谷川さんに、そのことを話した。
「梶原さんの引っかかりを拾えたんです。会議が、いつもより遅く終わりました」
「いい兆候です」
「これって、何が変わったんでしょう」と僕が聞くと、長谷川さんはこう答えた。
「土が育つと、そこに立ってる人の足元が、見えるようになるんですよ」
足元、と僕は反復した。なんとなく、わかった気がした。
僕は、たぶん、ずっと、提案書というレイヤーで仕事をしていた。提案書のなかに書かれていることだけを見て、「いいね」と判断していた。でも、提案書の下には、実際に提案している人の表情があって、その提案を聞いている人たちの呼吸があって、そのまた下に、組織のなかで誰がどう働いているかという、もっと細かい層がある。
朝の五分が、僕の足元の解像度を、ゆっくり、上げていた。
三か月目、朝比奈が変わった。
入社五か月目に入った朝比奈は、最初の頃、いちばん「いいフォーマット」に従順な提案者だった。Notionの提案テンプレを完璧に埋めて、想定リスクも漏れなく書いて、優先度の根拠もきれいに揃えて、出してきた。僕は、それに対していつも「いいね、進めよう」と返していた。
ある月曜日の朝の会議で、朝比奈が新しい提案を出した。形式は、いつも通り完璧だった。僕はいつものように「いいね、進めよう」と言いかけて——口を閉じた。
朝比奈自身が、ちょっと変な顔をしていた。提案を読み終わったあと、彼女は、自分が出した提案書を、自分でもう一回見つめていた。
「朝比奈さん、何か、引っかかってる?」と僕が聞いた。
朝比奈は、少し考えてから、こう言った。
「あの、すいません、これ書いたんですけど、書いてる途中で、本当はもう一個、別のアプローチも考えてたんです。でも、テンプレに二つ書く欄がないから、いつもの『代替案として却下した理由』の欄に、軽く書いて済ませちゃって。でも、もう一個のほうが、本当はいいかもしれない、って気もしてます。書きながら、ずっと迷ってました」
会議室が、少し静まった。
僕は、しばらく考えてから、こう言った。「じゃあ、ちょっと、その、もう一個のほうも聞かせてくれる?」
朝比奈は、十分くらい話した。準備していなかったから、言葉に詰まった。詰まりながら、考えながら、話した。
梶原が「あ、それなら、こういう懸念がある」と途中で挟んだ。
綾野が「私はそっちのほうが、長期で見ると効くと思う」と言った。
奥村が「もしそっちで行くなら、リソースの組み替えが要るね」と現実的な指摘をした。
——これが、二か月前まで、絶対に起きていなかった種類の十分間だった。
結論は、その日には出なかった。
「朝比奈さん、来週もう一回、ちゃんと整理してきて。今日の議論を踏まえて」と僕は言った。
朝比奈は「はい、ありがとうございます」と返した。彼女の顔は、少し疲れていたけれど、来た時より明るかった。
会議が終わったあと、僕は朝比奈に個別にメッセージを送った。
「さっき、もう一個のほう聞かせてくれてありがとう。ああいうの、もっと聞きたい」と。
三分くらいして返信が来た。
「実は、ずっと、テンプレに書ききれない『迷い』みたいなものを、出していいのかどうか、わからなくて。今日、出していい場だと感じたので、出しました」
出していい場、という言葉を、僕はちょっとのあいだ、見ていた。
——三か月前まで、僕のチームの会議は、たぶん、「迷いを出してはいけない場」だった。誰がそう決めたわけでもない。フォーマットの隙間と、僕の「いいね、進めよう」と、メンバーの「特に異論ありません」が、毎週毎日繰り返されることで、自然とそうなっていた。
朝比奈が「出していい場だ」と感じた瞬間、僕の組織のなかで、何かが、たしかに、変わったのだと思う。
半年が経った。窓の外の街路樹は、春に淡い新緑だったのが、夏の深い緑を経て、いまは秋の入り口で少し色褪せはじめていた。
正直に言うと、外から見える数字は、半年前とそんなに変わっていない。四半期ごとに上振れる傾向は続いているし、社外からの評価も変わらず良い。離職もない。
でも、内側の景色は、確実に違うものになっていた。
ドアを開ける前に息を吐く習慣は、僕からなくなった。
会議は、ぴったり予定の時間に終わるようになった。十分早く終わることは、めっきり減った。
代わりに、議題のなかに、結論が出ない議題が混ざるようになった。
「来週、もう一回考えてくる」「これ、もう少し時間取って話したい」——こういう言葉が、月に何度か、自然に出てくるようになった。
「いいね、進めよう」と僕が言う回数は、半分以下になった。
代わりに、「これ、なんでこのタイミング?」「リスクのところ、もう少し聞かせて」「別の選択肢、考えた?」と僕が問う回数が、増えた。
問われたメンバーは、最初の頃は少し戸惑っていたけれど、いまは、問われることに慣れてきた。問いを返してくることもある。
「星野さんは、どう思います?」と。
これに僕がちゃんと答えられない日は、僕も「ちょっと考えさせて」と返すようになった。
朝の冒頭の五分は、いまも続いている。感謝のひとことは、もう儀式っぽさを失っている。
誰かが「あの件、助かりました」と言うと、別の誰かが「あれは梶原さんのおかげだよ」と返す。
そのやりとりが、会議以外の場所——廊下、給湯室、Slackのリアクション——でも、自然に起きるようになった。
そして、これがいちばん大事なことだと思うんだけど——朝の五分がないと、なんだか一日が始まらないような感覚を、メンバー全員が持つようになった。
僕がこの五分を導入したんじゃない。いまや、この五分が、僕らのチームを作っている。
業績は、相変わらず良い。半年前と、たぶんほぼ同じくらい良い。でも、業績の良さに対する、僕の感じ方が、変わった。前は、業績の良さの裏側で、何かが薄くなっていく感じがしていた。
いまは、業績の良さと、自分のチームでの実感が、地続きになっている。良い数字の裏側で、ちゃんと、人が考えて、迷って、議論して、決めている——その感覚が、戻ってきた。
——これが、たぶん、長谷川さんの言っていた、土の完成形なんだと思う。
半年たって、僕はようやく、長谷川さんから正式な名前を聞いた。
「星野さんが半年やってきたやつ、神経基盤設計って、言います」
神経、基盤、設計——三つの硬い漢字が並んでいる。
「なぜ『神経』なんですか」と僕が聞くと、長谷川さんは答えた。
「脳のなかの、神経のつながりが、習慣によって物理的に変わる、っていう知見に基礎をおいてるからです。朝の五分、感謝を言い合う——あれは、人の脳の中の配線を、ゆっくり書き換える行為なんです」
僕は、三週目に綾野がふと止まった瞬間や、二か月目に梶原の眉の曇りを拾えたときのことを、思い出した。
「あれが、配線なんですね」
「そうです。配線は、一日じゃ育たない。一週間でも無理。でも、毎日、五分、同じ時間、同じ形式でやると、半年くらいで、がっしり育ちます」
「で、配線が育つと、何が起きるんですか」と僕が聞くと、長谷川さんはこう言った。
「配線が育つと、意識して努力しなくても、その行動が立ち上がってくる。努力が要らなくなる。努力が要らなくなると、続く。続くと、それが文化になる」
「研修とか、施策とか、いろんな組織開発の失敗のほとんどは、ここなんです」と彼女は続けた。
「配線が育つ前に、意志が尽きる。そのあと、『やっぱりうちは変わらない』『うちには合わなかった』って学習だけが残る。次の研修のハードルが上がる。星野さんの会社みたいに、業績がいいと、なおさら『うちは大丈夫』っていう学習が乗っかって、変える機会が遠のいていきます」
業績がいいと、なおさら——心当たりが、あった。ありすぎた。
「毎朝の五分、って、意志に頼らない設計なんですよ。朝になれば必ず来る時間のなかに、組み込んである。思い出さなくていい。思い出さなくていいから、続く。続くから、配線が育つ」
長谷川さんはそこまで言って、ちょっとだけ笑った。
「地味に見えるでしょう。でも、地味じゃないと、続かないんです」
地味じゃないと、続かない——この言葉が、僕はしばらく、忘れられなかった。
神経基盤設計には四つの軸がある、と長谷川さんは言った。半年かけて自分がやってきたことを四つに分解すると、こうなるらしい。
ひとつ、習慣の軸。毎日、同じ形式で繰り返す。脳の配線を物理的に育てる。時間がかかる。
ひとつ、絆の軸。小さな感謝のやりとりで、人と人のあいだの信頼を、静かに育てる。大きなイベントではなく、日常の五分で。
ひとつ、身体の軸。自分の体調や気分を、一言で言葉にする。これによって、自分の状態に気づく力と、それをチームで共有できる空気が、同時に育つ。
ひとつ、動機の軸。毎日ほぼ確実に発生する、小さな心地よさ——「気づいてもらえた」「ありがとうと言われた」——が、人を長く動かしつづける。
この四つは、別々の技法じゃない。朝の五分のミーティングひとつのなかに、全部が束ねられて入っている。僕はそんなことを意識したことはなかった。でも、たしかに全部、そこに入っていた。
意識しなくても効く設計——それが、長谷川さんの言う「神経基盤設計」の中身だった。
半年たって、チームはたしかに変わった。でも、長谷川さんはあるとき、こう言った。「土が育った、ここからが本番です」
「え?」と僕が聞き返すと、彼女は説明してくれた。
「土は、あくまで、他のものが効くための前提条件なんです。花が咲くわけじゃない。風を吹かせないと、強い木は育ちません。ここから、風の話をします」
風の話、と僕は反復した。最初に社食で聞いた、長谷川さんの言葉を思い出していた——組織は、土と、風と、回路でできている。半年かけて、ようやく土ができた。次は、風を入れる段階、ということらしい。
風を入れるのは、正直、少し怖い。いまのチームの、議論が走るようになった会議の空気が、乱れるんじゃないか。綾野がまた、追認の言葉に戻ってしまうんじゃないか。朝比奈が、もう「迷い」を出してくれなくなるんじゃないか。
「その怖さ、正しいですよ」と長谷川さんは言った。
「正しい?」と僕が聞くと、
「風を入れるときは、正しい怖さが要ります。その怖さがない人が風を入れると、土を吹き飛ばして終わります」と彼女は答えた。
正しい怖さ——次の章で、風の話をしよう。
風は、場の勾配理論、という、また硬い名前を持っている。でも、やっていることは、きっと、やっぱり、地味なことのはずだ。
そして——これは僕の予感にすぎないけれど——風を入れることで、僕がいちばん最初に向き合うことになるのは、たぶん、僕自身が、半年前まで「いいね、進めよう」と言いつづけていた、あの自分のことなのだと思う。
「朝のひとこと」は、COSの三技法のうち神経基盤設計(Neural Base Design)の実装にあたります。短く、繰り返され、既存のリズムに結びつけられた行動が、組織の土壌をゆっくり変えていく——その過程が、この章の理論的な背景です。
本作はフィクションです。登場する組織・人物は、臨床組織科学(COS)の考え方をイメージしやすくするために創作されたもので、実在のものではありません。下敷きにある理論は、査読論文として公開されています。
RELATED PAGES