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会話、沈黙、動きの変化を捉える。
Field Notes
DroRの第3章「風の話——二対一が作る、あの妙な感じ」ページです。研究と実践を往復しながら、組織変革に必要な論点を整理します。
FIELD OBSERVATION
Field Notesは、COSの理論が現場でどう立ち上がりうるかを描いた創作の物語です。日常の相互作用に、変革の条件を見つける素材として読めます。
会話、沈黙、動きの変化を捉える。
何が起きているかを仮説化する。
個別場面を組織の条件として読む。
次の実践と観察へ接続する。
半年たって、朝の五分は、たしかに僕らのチームに根づいた。もう十月の終わりで、会議室のブラインドの隙間から差し込む朝の光は、秋の深いところにあった。窓の外の街路樹は、半分くらい葉を落としている。
会議は、以前のようにぴったり十分早く終わることは、もうない。議題のなかに「結論が出ない議題」が混ざるようになった。梶原が眉を曇らせたら、僕はそれを拾う。朝比奈が「テンプレに書ききれなかった迷い」を出せば、みんなで十分かけて一緒に考える。
それでも——と、僕は、三か月目くらいから、別の違和感を抱えはじめていた。
変わったのは、たしかに変わった。でも、変わり方が、全体にまだ、どこか遠慮がちだった。
たとえば、提案に対して梶原が引っかかりを言葉にしてくれるようになった。それは大きな変化だ。でも、梶原の引っかかりは、いつも「言葉にしようかしまいか、ぎりぎりのところで言葉にする」という温度だった。僕が聞けば出てくる。聞かなければ、たぶん、今でも出てこない。
朝比奈も、「迷い」を出してくれるようになった。でも、出すのは、会議の最後、自分で切り出すまでに相当な勇気が要るらしい気配がある。
綾野は、三週目にふと止まって以来、少しずつ内面を見せるようになってはいる。でも、まだ、自分から議題をひっくり返すような問いを出すことはない。
要するに、チームのなかには、まだ、見えないブレーキのようなものが残っていた。
土は育った。土の上に、小さな芽は出ている。でも、その芽が、まっすぐ上に伸びずに、どこか横に曲がっている——そういう景色に、僕には見えていた。
ある金曜日の夕方、僕は長谷川さんに、その違和感を話した。
「土は、できた気がするんです。でも、なんか、芽が、上に伸びてない感じがあって」と僕が言うと、長谷川さんは
「いい観察ですね」と答えた。
「土だけだと、芽は、そこまでしか伸びないんです。根が横にしか広がらないから、上にぐっと抜けていく推進力が足りない」
「じゃあ、何が、足りないんですか」
「風です」
風、と僕は反復した。最初に社食で聞いた、土・風・回路、の話だ。
「風って、具体的には」と僕が聞くと、長谷川さんは少し考えてから、こう言った。
「風のいちばん標準的な形は、二対一のミーティング、です」
「二対一、ですか」と僕が戸惑うと、長谷川さんは淡々と続けた。
「二人と、一人で、一緒に話す会議。それだけです。でも、この形に、物凄いことが入ってる」
物凄いこと、と彼女は真顔で言ったので、僕は笑いそうになった。長谷川さんは冗談を言う人ではない。こういうときの彼女の「物凄い」は、文字通りの意味だ。
「それで、星野さん」と彼女は続けた。
「次にやりたいのは、星野さんに対して、私と梶原さんで、二対一をやること、なんですけど」
「——え?」
「え、って顔しますよね」
「します。する、というか、している、と思います」
「そうなりますよね」
長谷川さんは、珍しく、ちょっと笑った。
「星野さん、風を入れる側になる前に、一回、風を受ける側を体験しないとダメなんです。受けたことない人が、人に風を入れると、だいたい、間違える」
「間違える、って」
「風を、強制と区別できなくなる、っていう間違え方です」
強制、と風——僕にはまだ、何のことか、わからなかった。
その翌週の金曜日、午後四時。
長谷川さんと梶原が、小さな会議室で、僕を待っていた。アジェンダは、その週の火曜日に、長谷川さんからDMで届いていた。「星野さんが、いまいちばん迷っていることについて、三人で一時間話します」とだけ書かれていた。
部屋に入る前、僕は、妙に緊張していた。これはなんだ、と思いながら、息を吐いた。半年前の月曜日の朝、会議室のドアを開ける前に小さく息を吐いていた、あの感覚に、ほんの少し似ていた。
ドアを開けると、二人は並んで座っていた。テーブルの対面に、僕の椅子がひとつ。二人と、一人。ただそれだけの配置が、明らかに、普段の会議とは何かが違っていた。
「今日は、星野さんが、いま判断を保留してる『採用基準の見直し』について、三人で話す時間です」と長谷川さんが言った。
「梶原さんには、現場視点で、一緒に入ってもらってます」
「はい」と僕は短く答えた。
梶原が、こちらを見た。いつもの梶原だった。いつもの梶原のはずなのに、その視線には、普段より少しだけ重さがあった。
「星野さん」と梶原が言った。
「採用基準の見直し、三か月前に議題に上がって、そこから一回も進んでないですよね」
僕は、あ、と思った。
たしかに、進んでいなかった。毎回の会議で、「来週までに案を出します」と僕自身が言っておきながら、翌週は別の緊急案件に押しのけられて、気がつくと三か月が経っていた。メンバーの誰もそれを責めなかったから、自分のなかでも棚上げしていた。
「星野さん、あれ、本当はどうしたいんですか」と梶原が続けた。
——この問いが、普段の会議で梶原から飛んできたとしたら、僕はたぶん、無難に流せた。「うん、難しいよね、来月ちゃんとやろう」と言って、次の議題に進める。でも、この会議室には、長谷川さんがもう一人いる。二人に囲まれた状態で、僕は、気づくと、流せない位置にいた。
「……たぶん、僕は、やりたいんです」と、僕は言っていた。
「やりたいけど、怖いんです。採用基準を変えるって、いままで採用してきた人たちへの評価を、暗に変えることになる。反発が来る。それが、怖い」
口にしてから、僕は、自分でも驚いた。この言葉を、社内で、誰にも言ったことがなかった。自分でも、はっきり意識していなかった。
梶原が、ゆっくりうなずいた。
長谷川さんが「もう少し、聞かせてください」と短く言った。
そこから四十分、僕は話した。話すことしかできなかった。
二人は、交互に、問いだけを投げてきた。
「反発が来る、っていうのは、具体的に、誰からですか」
「反発が来たら、いちばん困るのは、何ですか」
「反発が来ないように、いま星野さんは、無意識に何をしていますか」
「もし三か月前に動いていたら、何が起きていたと思いますか」
どの問いも、優しかった。優しかったけれど、逃げ場がなかった。
二人がいるから、逃げ場がないのだ、と、会議の半ばで、僕は気づいた。
会議が終わって、僕は、しばらく会議室に残って、ぼうっとしていた。
疲れていた。でも、嫌な疲れ方ではなかった。何かが、動いた感じがあった。三か月、自分のなかで棚上げしていた議題が、自分の言葉で、動けそうな輪郭を持ちはじめていた。
夕方、長谷川さんが僕の席に寄ってきて、
「大丈夫ですか」と短く聞いてくれた。
「……大丈夫、です」と僕は答えた。
「疲れました、けど」
「そうですよね。二対一は、受けると、疲れます」
「はい」
「さっきの会議の、何が、効いたと思います?」と長谷川さんが聞いた。
僕は、少し考えた。
「……一対一だったら、あそこまで話さなかったと思います」
「ですよね。なんで、だと思います?」
もう少し考えて、僕は言った。
「一対一だと、相手との関係の中で、自分の位置を守れる気がするんです。うまく流したり、ユーモアに持ち込んだり、話題を変えたり。でも、二人になると、その『位置取り』みたいなやつが、うまく立ち行かなくなる」
「そうなんですよ」と長谷川さんは答えた。
「二対一は、『位置取り』ができなくなる形なんです」
位置取りができなくなる——その表現が、しっくり来た。
「社会学者が、百年以上前に気づいていたことでもあります」と長谷川さんは続けた。
「二人の関係と、三人の関係は、質的にぜんぜん違うって。二人だと、お互いがお互いに対して、同じくらいの力を持てる。均衡が取れる。でも三人になると、必ず、力の差が生まれる。誰かと誰かが微妙に同調して、もう一人に対して、少しだけ強い場を作ってしまう。これ、避けられないんです。構造的に」
「僕は、さっき、その『強い場』の前にいた」
「そうです。で、強い場の前にいると、普段よりちょっとだけ本音が出やすい。これが、風、なんです」
風——はじめて、その比喩の意味が、身体感覚として入ってきた気がした。
「ただ」と長谷川さんが念を押した。
「同じ二対一でも、土が育ってない場所でやると、ただの追い詰めになります。『責められている』って感覚になる。そうなると、人は防御に入って、本音は出ない。むしろ逆に、奥にしまい込む。だから、土のない場所では、絶対にやっちゃいけないんですよ、この形」
土がないと、風は攻撃になる——僕は、その言葉を、ノートに書き写した。
それから三週間くらいして、長谷川さんが「次のステップです」と言ってきた。
言ってきた、というのは、正確には、午後三時頃に僕の席にふらっと立ち寄って、デスクの端にコトッと何かを置いていった、ということだった。見ると、茹でたブロッコリーが三房、タッパーに入って、置かれていた。
「……これ、なんですか」と僕が聞くと、
「お裾分けです、栄養バランスのために」と長谷川さんは真顔で答えた。
「長谷川さん、馬刺しばっかり食べてません?」
「食べてますよ。でも、鉄分とタンパク質だけだと、ビタミンが足りないから。星野さんにも、たぶん、ビタミン、足りてないです」
足りてないかどうかは別として、人のデスクに突然ブロッコリーを三房置いていく、という行為の平然とした実行力に、僕は改めて圧倒された。
「で、次のステップは、何ですか」と僕が話を戻すと、長谷川さんは立ったまま、こう言った。
「星野さんが、二対一を、やる側になる番です」
「誰を相手にするんですか」
「朝比奈さんです」
「朝比奈さん?」
「はい」
朝比奈は、三か月目に「テンプレに書ききれなかった迷い」を出せるようになった、あの朝比奈だ。いまや、彼女は僕のチームのなかで、いちばん考える新人になっている。僕が「迷いを出してほしい人」としていちばん期待している一人だ。
「朝比奈さんは、いまのチームのなかで、伸びしろがいちばん大きいんです」と長谷川さんは言った。
「でも、彼女、自分から議題をひっくり返すほどの勇気は、まだ持ててない。そこに、ちょっと風を入れます」
「一対一じゃダメなんですか」と僕が聞くと、
「一対一だと、星野さんが優しすぎるんですよ」と長谷川さんは笑った。
「朝比奈さんも、星野さんに気を遣って、いいところで話を収めちゃう。二対一だと、収めきれなくなる」
「誰と、二人で組むんですか」
「梶原さんがいいです。朝比奈さんが、いちばん信頼してる先輩です」
「……梶原さん、やってくれますかね」
「やります。梶原さんは、いま、自分が風を入れる側に立てるのが嬉しいんです。あの人、本当は、ずっとそういう役割をやりたかったみたいですよ」
梶原が、そうだったのか——僕は、また、自分のチームの奥行きを、少しだけ、見誤っていたことに気づいた。
次の週の水曜日、午後三時。
僕と梶原と、朝比奈で、一時間の会議を設定した。名目は「朝比奈さんの新規施策について、改めて一緒に話す」。アジェンダは、前日の夜にDMで送ってあった。
朝比奈は、入ってきたとき、少しだけ不安そうな顔をしていた。
「なんか、怒られる感じですか?」と冗談めかして聞いてきたので、梶原が「怒らないよ」と短く返した。
僕は「怒るためじゃなくて、朝比奈さんが、もっと遠くに行けるように、って思って、今日この形にした」と言った。
朝比奈がうなずいた。不安そうな顔は、少し和らいだ。
そこから一時間、僕らは、朝比奈の新規施策について話した。正確には、朝比奈が、自分の施策について、いつもより深く話した。
僕と梶原は、交互に、問いだけを出した。
「この仮説の弱いところは、朝比奈さんから見るとどこですか」
「もし反対する人がいたら、どの部分で反対すると思いますか」
「三か月後、うまくいかなかったとしたら、その理由として考えられるのは何ですか」
朝比奈は、最初は詰まりながら、だんだん、流れるように話しはじめた。彼女自身、自分の提案の盲点を、自分で話しながら発見していく、という顔をしていた。会議の終盤で、彼女は言った。
「あの、実はこれ、もう一回、大きく書き直したほうがいい気がしてきました」
梶原が「じゃあ書き直しておいで、応援する」と短く答えた。
僕も「楽しみにしてる」と言った。
朝比奈は、少し疲れた顔で、でも、目は明るくして、会議室を出ていった。
会議が終わったあと、梶原が僕に言った。
「星野さん、あの会議、僕、楽しかったです」
「楽しかった?」
「はい。朝比奈さん、本当は、もっと深いところまで考えてるのに、普段は、半分しか出してなくて。今日、ぜんぶ出してくれた感じがしました」
梶原の顔は、珍しく、少し紅潮していた。
風を入れるのは、入れる側にも、何かを動かすのだ、と、僕はそのときはじめて気がついた。
二対一がうまくいった話ばかりを書くと、嘘になる。
実は、同じ形式を、綾野に対しても試したことがあって——これは、あまりうまくいかなかった。というより、一歩間違えば、取り返しのつかない失敗になるところだった。
綾野は、三週目にふと止まって以来、少しずつ内面を見せてくれるようになっていた。でも、自分から議題を動かすほどの位置には、まだ来ていなかった。
「綾野さんにも、二対一、やりましょうか」と僕が長谷川さんに相談すると、彼女は少し長く考えてから、
「うーん、いまの綾野さんには、まだ、早いかもしれません」と言った。
でも、僕はそのとき、朝比奈のときの手応えに気を良くしていて、「大丈夫だと思うんです」と押し切った。
長谷川さんは「やるなら、慎重に」と念を押した。
梶原と二人で、綾野との二対一を設定した。アジェンダは、綾野が長く関わっているプロジェクトの見直しについて。
会議が始まって、二十分。
僕は、途中で、何かがおかしいことに気づいた。
綾野の答えが、どれも、微妙に短かった。短いだけなら良いのだが、短い答えのあと、彼は、少しだけ目を伏せる癖を見せはじめた。何かを隠している、ではなく、何かを耐えている顔だった。
僕は、問いを止めた。
「ごめん、ちょっと、いまの聞き方、重かった?」と聞いた。
綾野は、少し沈黙してから、こう答えた。
「あの、すいません、なんか、責められてる感じが、してて」
責められてる、という言葉が、その会議室に、重く落ちた。
梶原が「そんなつもりはなかった、ごめん」と短く言った。
僕も「ごめん、これ、いまの綾野さんには合ってなかったと思う」と謝った。
会議は、そこで、一度中断した。
その日の夜、僕は長谷川さんに、長いDMを送った。
「綾野さんに風を入れようとして、失敗しました。責められてる、って言わせてしまいました」
返信は、その夜のうちには来なかった。長谷川さんのDMの返信は、昔から、タイミングが読めない。即答してくる日もあれば、三日くらい音沙汰がない日もある。ただ、来るときの返信は、たいてい、異常に丁寧で、長い。
その夜は、深夜二時に、スマホが鳴った。
目が覚めて、画面を見ると、長谷川さんからのDMだった。
「起きてたら、読んでください。起きてなかったら、朝に、落ち着いて読んでください」という一行で始まっていた。
僕は、眠かったけれど、続きを読んだ。
「正しく、止められて、よかったです。あの、星野さん、これは今後のために大事なことなので、書きますね。二対一は、土の厚みの違いに、敏感です。朝比奈さんは、もう土の上に立てていた。綾野さんは、まだ土の縁に足を乗せている段階だった。同じ形式でも、乗せている土の厚みが違うと、結果がぜんぜん違う」
「綾野さんには、何をすればいいですか」
「しばらく、二対一は、やめておきましょう。綾野さんとは、もう少し、一対一を丁寧に重ねましょう。彼の土は、もう少し厚くなる必要があります」
翌日、僕は綾野に個別で会って、「昨日はごめん」とだけ言った。
綾野は「いえ、僕もうまく答えられなくて、すいません」と言った。
僕は「綾野さんが悪いんじゃない。僕の設計が、早すぎた」と答えた。
綾野は、少し驚いた顔をした。でも、そのあと、小さく笑って、「そう言ってもらえると、救われます」と言った。
その週の終わり、長谷川さんが、また例の、急がない声で言った。
「今日、綾野さんのこと、振り返りましょう」
「はい」
「二対一が、失敗する仕組みを、もう一回ちゃんと言葉にしておきたいんです」
僕たちは、社食のすみで、コーヒーを飲みながら話した。
「二対一が作る力のことを、私たちは『勾配』って呼んでます」と長谷川さんは言った。
「坂、みたいな意味です。物が、坂の高いほうから低いほうに転がるように、場のなかに方向性ができる」
「二人と、一人で、二人の側から一人の側への『坂』ができる、ってことですね」
「そうです。その坂が、うまく機能すると、坂の下にいる人の、普段は出てこない本音が、出やすくなります。風の、本当の働きは、これです」
「失敗するのは、どういうときですか」と僕が聞くと、長谷川さんはこう答えた。
「坂が、急すぎるか、受ける側に、土がないときです。急な坂で土がないと、坂の下にいる人は、転がるんじゃなくて、踏みつけられている感覚になる」
踏みつけられている——綾野の「責められてる感じ」は、まさにそれだった。
「じゃあ、どうすれば、勾配になって、強制にならないんですか」と僕が聞いた。
「三つあります」と長谷川さんは答えた。
「一つ目は、土です。受ける側に、一定以上の土——つまり、心理的な安全と、関係の蓄積——があること。これがないと、何をしても強制になります」
「二つ目は、坂の角度です。二対一でも、きつい問いを重ねすぎると、角度が急になる。『なんでやらなかったんですか』を連打すると、もう強制です。角度は、相手が答えるあいだに呼吸する余裕があるくらい、が目安です」
「三つ目は、坂を登れる道を残しておく、です。問いを出したら、それに答える形以外の答え方も認める。『今は答えが出ない、持ち帰って考えたい』も立派な答えとして受け入れる。これがないと、坂の下にいる人は、問いに対する『正解』を探し始めて、本音じゃなくなる」
長谷川さんの話を、僕はノートに書き写した。土、角度、登れる道。
ノートを閉じて顔を上げると、長谷川さんが、コーヒーカップに口をつけたまま、五秒くらい、視線をどこにも合わせていなかった。例の沈黙だった。でも、今日のそれは、いつもより少し長く、少し重かった。
「あと、もう一つ、大事なことがあるんですけど」と彼女は、やがて口を開いた。「これは、星野さんがいま、ちゃんと身につけはじめていることなので、嬉しいんですけど——失敗したときに、ちゃんと『失敗した』って言える関係です。綾野さんに『ごめん、早すぎた』って謝れた星野さんは、もう一個、壁を越えています」
越えているのか、と、僕は思った。越えている感覚は、正直、なかった。ただ、綾野を傷つけてしまったという感触だけが、まだ、少し胃のあたりに残っていた。でも、長谷川さんがそう言うなら、そうなのかもしれない、と思えた。
あの失敗から、さらに二か月くらい経った。
朝比奈は、二対一を三回やった。二回目と三回目は、梶原ではなく、奥村と組んだ。組む相手を変えると、引き出されてくる話の角度も変わる、ということを、僕らは少しずつ学んでいた。
朝比奈は、いまや、自分から議題を投げ込んでくるようになった。先月の朝会で、彼女は、半年前から宙に浮いていた採用基準の見直しについて、
「あれ、誰もやる気がないなら、私が叩き台作りたいんですけど、いいですか」と言った。
僕は、「はい、お願いします」と短く答えた。
妻夫木にも、奥村にも、それぞれ、時期を見て、風を入れた。
奥村は、最初の一回目、梶原と僕とで組んだ。彼女が話してくれたのは、自分が会社のなかでどう見られていると思うか、だった——それは、僕が思っていたよりも、ずっと辛辣な自己評価だった。
「私はたぶん、『地味にやってくれる人』としてしか見られていない」と彼女は言った。
梶原と僕は、しばらく黙ってそれを聞いた。
聞いたあと、梶原が「そんなことないよ」と言わなかったのを、僕は今でも覚えている。
梶原は、その自己評価を、いったんそのまま引き受けた。
それから、奥村の仕事の別の側面——たとえば新人オンボーディングでの、静かだけど決定的な役割——について、具体的に話した。
奥村の顔が、だんだん、柔らかくなっていった。
この一回を経てから、奥村は、少しずつ、自分が風を入れる側にも立てるようになっていった。朝比奈の二回目の二対一で奥村がペアに入ってくれたのは、それから二か月ほどあとのことだった。
綾野には、半年ほど、二対一をやらなかった。代わりに、一対一を、丁寧に続けた。
彼が自分の時間で、ゆっくり土を厚くしていく時間を、僕は待った。
八か月目くらいから、綾野は自分のほうから「星野さん、二対一、今度、誰かと一緒にやってもらえますか」と言ってきた。その日のことを、僕は、たぶん、これから先も覚えている。
半年が経ち、やがて一年が経とうとしている頃、チームの景色は、さらに変わった。気がつけば、次の年の春が巡ってきて、街路樹の葉はまた新しい緑に戻っていた。
会議では、問いが、自然に飛び交うようになった。半年前にはあり得なかった頻度で、メンバー同士が、お互いの提案を、柔らかく、でもはっきり、問い直すようになった。
ただ、そうなって、僕はまた、新しい違和感を抱えるようになった。
問いが増えたことは、いいことだ。議論が深くなったことも、いいことだ。でも、その議論のあと、何かが、少しだけ、重く残るようになった。問いを増やすことは、人の心に、重さも増やすのだ。
「風を入れると、埃も舞うんです」と長谷川さんは言った。
「舞った埃を、どう受け止めて、落ち着かせるか。そのための『回路』が、まだ、足りてない」
土、風、そして回路——最後の一つが、まだ、残っていた。
次の章で、回路の話をする。
名前を、ループ変換設計、という。
例によって、名前は、硬い。でも、やっていることは、たぶん、やっぱり、地味なことのはずだ。
そして、この回路のなかで、僕らは、批判や違和感を、関係を壊さずに扱う方法を、ようやく、手にしていくことになる。
二対一の対話は、COSの2on1構成の実装です。そして「強制と、勾配の違い」で語られるのは、場の勾配理論——人を動かすのは命令ではなく、場に生まれるゆるやかな傾きだという見方です。
本作はフィクションです。登場する組織・人物は、臨床組織科学(COS)の考え方をイメージしやすくするために創作されたもので、実在のものではありません。下敷きにある理論は、査読論文として公開されています。
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