DroR Laboratory RESEARCH & FIELD NOTES

Field Notes

第5章「時間の話——自分の手を離れていくということ」

DroRの第5章「時間の話——自分の手を離れていくということ」ページです。研究と実践を往復しながら、組織変革に必要な論点を整理します。

第5章「時間の話——自分の手を離れていくということ」に関連する現場観察と記録のビジュアル

FIELD OBSERVATION

組織が動く兆しは、現場の小さな変化から。

Field Notesは、COSの理論が現場でどう立ち上がりうるかを描いた創作の物語です。日常の相互作用に、変革の条件を見つける素材として読めます。

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会話、沈黙、動きの変化を捉える。

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一年半、経った

一年半が経った。

この本を書いている僕は、いま、そのあたりの時間に立っている。最初に長谷川さんと社食で話した日から数えて、季節が六回くらい変わった、ということになる。いまはまた秋で、去年よりもひとつ年を重ねた秋だった。

振り返ってみると、この一年半のあいだに起きたことは、書いてきたとおりだ。朝の五分が根づいた。二対一のミーティングが回るようになった。3Good1Moreが週次のフォーマットになった。綾野が自分から二対一を申し出るようになり、奥村の地味な仕事は、もう地味なままで放置されてはいない。朝比奈は、少し前に、自分の新規施策を役員会議に直接プレゼンして、通した。

数字は、相変わらず良い。むしろ、以前より、良い。四半期の結果は、業界内でも例外的な水準で推移している。

それなのに——と、僕は、この秋に入ってから、また新しい違和感を抱えはじめていた。

今度の違和感は、去年のそれとは、質が違った。

去年の違和感は、「自分が判断していない」という焦りだった。今度の違和感は、もっと静かで、説明しづらい。

自分が、このチームのなかで、何をしているのかが、よくわからない——そういう感覚だった。

会議では、メンバーが問いを出し合って、議論を進める。僕が何かを差し挟む前に、たいてい、梶原か妻夫木か朝比奈のうち誰かが、ちょうどいい問いを入れる。3Good1Moreは、もう僕が回さなくても、誰かが自然に型に乗せて進めてくれる。奥村が、新しく入ってきたメンバーに、朝の五分のやり方を、僕よりも丁寧に教えている。

会議室に座っていると、僕は、なんだか、自分だけが、少しだけ、席を間違えている気がすることがあった。


月曜日の朝、休んでみた

十月の、ある月曜日。

前の週末に風邪をひいて、ぎりぎりまで迷ってから、朝会を休むことにした。Slackに「今日は一日休みます、すみません」と書いて、布団のなかで、少しだけ不安になった。朝の五分が、僕なしで、ちゃんと回るだろうか。

九時半ごろ、Slackに、梶原から短いメッセージが届いた。

「朝会、終わりました。みんなでお大事にって言ってました。議事録、あとで見てください」

夕方、起き上がって、議事録を見た。

普段と、何も変わらない議事録だった。冒頭の五分の「昨日、誰かのおかげで助かったこと」には、七つの感謝が、短く整理されて書き込まれていた。新人の派遣の人が「朝の五分、なんか、家に帰ってからも思い出すんですよね」と言った、というコメントまで、議事録に書いてあった。

議事録の末尾に、奥村が、こう書いていた。「星野さん、お大事に。チームは大丈夫です」

チームは、大丈夫です——僕は、布団のなかで、その一行を、しばらく見ていた。

嬉しいはずだった。自分が半年、一年、一年半かけて育ててきたものが、自分がいなくても動くようになった、ということは、成功の証のはずだった。

でも、僕の胸のなかに動いたものは、成功の喜びとは、少し違う種類の感情だった。

なんだろう、これは——と思いながら、僕はもう一度、眠りに落ちた。


長谷川さんの、契約の話

その週の金曜日、長谷川さんが、僕に「ちょっと夕方、時間もらえますか」と声をかけてきた。

会議室Bに入ると、長谷川さんは、緑茶の入った水筒と、なぜか、妙に大きいおにぎりを二つ、ラップに包んで机の上に置いていた。

「……また、おにぎり」

「朝、作ってきたので。昼食べ損ねたら、って思って」と長谷川さんは答えた。「ふたつ、ですか」「ひとつだと、心もとないので、いつも二個です」

心もとない、という基準が、長谷川さんのなかではあるらしかった。

「で、具、なんですか」と僕が聞くと、長谷川さんは、真顔で答えた。「馬刺しのしぐれ煮」

うん、知ってた、と僕は心のなかで思った。

「星野さんに、ちょっと、先に伝えておきたいことがあって」と長谷川さんは言った。

少し、声の調子が、いつもと違った。

「来年の春から、御社との契約、週二日に減る予定です」

——あ、と僕は思った。

「もう一年半、いる予定だったんですけど、別の会社で、新しい取り組みを始めることになって。そっちに、だんだん、時間を移していくことになります。星野さんのチームにいられる時間は、半分くらいに減ります」

「いつから、ですか」

「正式には四月からですけど、実質的には、たぶん、年明けから、少しずつ」

少しずつ——という言葉が、夕方の会議室Bに、静かに落ちた。

「いなくなる、わけじゃないですよね」と、僕は、少し急いで聞いた。

「いなくなるわけじゃないです」と長谷川さんは答えた。「ただ、頻度は、減ります。星野さんが、私がいなくても大丈夫、っていう状態に、実はもう、来年の春までには、なる予定で設計してるので」

設計していた、ということを、僕は今、初めて知った。長谷川さんは、ずっと、自分がいなくなる日のことを、計算に入れながら仕事をしていたらしかった。


なぜ、寂しいのか

長谷川さんが、ラップを開けて、おにぎりのひとつを、そっと僕のほうに寄せた。「食べてください、糖分、必要そうな顔してるので」

糖分というより米、という気がしたが、僕は受け取った。馬刺しのしぐれ煮の濃い醤油の匂いが、ラップのあいだからかすかに漂ってきた。

「長谷川さん、一つ、聞いていいですか」

「はい」

「最近、僕、会議室に座っていて、自分が、そこにいる意味がよくわからない、って感じることが、あるんです。みんなが自分で回してる。僕がいなくても、たぶん、朝会は回る。それが、嬉しいはずなのに、なんか、少し、寂しくて」

寂しくて——と口にしてから、僕は、自分でその感情の正体に、少しだけ近づけた気がした。

長谷川さんは、例の5秒の沈黙に入った。自分のおにぎりを、小さくひとくちかじってから、こう言った。

「それが、自律的段階、なんですよ」

「自律、的、段階」と、僕は反復した。

「組織のなかに、新しい習慣や、新しい回路を入れるとき、最初は、誰かが意志を持って回さないと回らない段階があります。これを、意志的段階って呼びます。星野さんが、一年半前、朝の五分を始めて、みんなの顔を順番に見ながら、『じゃあ、梶原さんから』って言ってた頃。あれが意志的段階です」

「はい」

「意志的段階は、主役が、ちゃんと主役に見える段階です。星野さんが、朝会を、動かしてた。二対一の設計を、考えていた。3Good1Moreを、みんなに導入した。全部、星野さんの意志の、直接の延長として回っていた」

「……いまは、違うんですか」

「違います。いまは、自律的段階に入っています」と長谷川さんは言った。

「回っているのは、もう、星野さんの意志じゃない。メンバーの側に、回す意志が、移ったんです。新しく入ってきた派遣の人が『朝の五分、いいですね』って言ったのは、その人がそれを、星野さんのものとしてじゃなくて、チームのものとして受け取ったから、なんですよ」

チームのもの——として。

「で、自律的段階に入ると、主役だった人は、いらなくなるんですか」と、僕は少し、重い声で聞いた。

長谷川さんは、首を横に振った。

「いらなくなる、わけじゃないんです。役割が、変わるんです」


役割が、変わるということ

「意志的段階の主役は、回す人です」と長谷川さんは続けた。

「みんなの先頭に立って、見本を見せて、引っ張って、回していく。その役割です」

「自律的段階の役割は、見守る人です。回っているのを、少し離れたところから見ている。必要なときに、小さく介入する。だいたいの時間は、黙って座っている。だから、会議室に座っていて、自分が何をしているかよくわからない、って感じるのは、実は、ちゃんと役割が移行してるサインです」

「でも、見守るだけで、いいんですか。なんだか、手持ち無沙汰で」

「手持ち無沙汰で、いいんです」と長谷川さんは答えた。「手持ち無沙汰を耐えられる人が、自律的段階のリーダーになれるんです。ここで、『いや、俺がもっと関わらないと』って戻ってくる人は、意志的段階に逆戻りします。すると、メンバーの側にせっかく移った『回す意志』が、また萎んでしまう」

「……戻したら、ダメなんですね」

「ダメです、というか、戻したい気持ちを、持ったまま、戻さない、のが仕事です。このあたりから先は、やるべきことじゃなくて、やらないことを選ぶ仕事になります」

やらないことを選ぶ——僕は、その言い方を、ノートに書いた。

「あと、もう一個、言っておきたいことがあって」と長谷川さんは続けた。

「星野さんが、いま、感じてる寂しさは、大事な感情なんです」

「大事?」

「はい。主役だった場所から少しずつ離れていくときに、寂しいと感じない人は、たぶん、最初から、ちゃんと主役をやっていないんです。ちゃんと回してきた人は、その場所を離れるとき、寂しい。これは、正しい感情です」

正しい感情、ですか——と僕は、おにぎりを、ゆっくり食べながら、聞き直した。馬刺しのしぐれ煮は、たしかに、味が濃かった。

「正しい感情です。大事にしてください」


新しく入ってきた人たちの、当たり前

十一月の半ば、新卒の入社予定者数名が、オフィスに内定者インターンで来るようになった。

僕のチームには、そのうち二人——山口さんと、菅田さん——が、十二月から試験的に配属されることになっていた。初日、彼らは少し緊張した顔で、朝会に参加した。

朝会が始まって、朝比奈が、冒頭の五分を回した。「はい、じゃあ、『昨日、誰かのおかげで助かったこと』、一人ずつ、短く」。

梶原が、奥村が、妻夫木が、綾野が、短く話した。朝比奈の次は、山口さんの番だった。

山口さんは、少しだけ戸惑ってから、こう言った。「えっと、内定者懇親会で、同期の子が、うちの会社の良いところを、三つ褒めてくれて、すごく嬉しかったんですよね」

褒めてくれた、三つ——と彼は言った。

綾野が、小さく笑った。「山口くん、三つ、って言葉、大学の頃から言ってた?」

山口さんは、不思議そうな顔をした。

「……え? 特に。普通じゃないですか、三つって」

普通、と僕は、心のなかで反復した。彼は、このチームの人が3Good1Moreを回していることを、まだ知らない。それなのに、「三つ褒めてくれた」という言い方で、自分の体験を切り取っている。

三つという単位は、このチームの文化のなかから、漏れ出している。

そして、その文化は、もう、僕がこのチームに持ち込んだ当時の形を、はっきりと越えていた。メンバーの側で、自発的に、変形されて、次の世代に手渡されようとしていた。

僕は、朝会のあいだ、その景色を、少し離れたところから、見ていた。


奥村の、娘さんの話

その週の金曜日、僕は奥村と、ランチを一緒にとることになった。月に一度、僕が個別のメンバーとランチをする習慣を、三か月前から始めていた。

社食のすみで、席について、しばらく雑談した。

「そういえば、奥村さんの上のお子さん、小学校だったっけ」と、僕は何気なく聞いた。

「はい、去年の春から。今年度は二年生です」と奥村は答えた。

「実は、最近、保育園の頃の不安定が嘘みたいに、すごく学校が楽しいみたいで」

「よかった」

「はい、ほんとに」と奥村は、少し肩の力を抜いて笑った。

「長谷川さんに、一年くらい前に、リモートの頻度を調整してもらって、それから、いろいろ、落ち着いたんですよね。ちょうど保育園のゴタゴタと、このチームの状況が、重なってた時期で」

僕は、一年前の、自分が奥村の家の事情を知らなかった秋のことを思い出していた。廊下で呼び止めて、奥村が小さく、「長谷川さんには、六月くらいに、ちょっとだけ相談して」と言ったあの日のことを。

「奥村さん、あのとき、僕、ぜんぜん気づいてなくて、ごめん」

「いえ、あの時期の星野さん、自分のことでもけっこういっぱいいっぱいでしたよね」と奥村は笑った。

「でも、今思うと、あのちょっとあとから、星野さん、メンバーの顔を、見るようになったと思うんですよ」

「見るように、なった」

「はい。あの、うまく言えないんですけど、前は、私たちの仕事を見てた感じで、今は、私たちの人を見てくれてる感じがする、というか」

仕事を見る、人を見る——僕は、その区別を、ゆっくり呑み込んだ。

奥村は、そのあと、娘さんが学校でなわとびの大会があるらしいこと、最近、下の子が上の子の真似ばかりすること、家族の話を、少しだけしてくれた。そういう話を奥村から聞いたのは、たぶん、この一年半で、初めてのことだった。


長谷川さんの、もう一歩踏み込んだ話

十二月、年の瀬に入った頃、長谷川さんが、また何かを持って、僕を呼んだ。

「今日、最後の雑談、いいですか」

「最後、って」

「いや、今年最後の、って意味です」と長谷川さんは笑った。

「年内、私、あと一回しか出社予定ないので」

会議室Bのテーブルには、今日もラップに包まれたものが、二つ並んでいた。ただし、いつもの馬刺しのしぐれ煮の匂いではなかった。なんだか、甘い匂いがする。

「……今日は、馬じゃないんですね」と僕が聞くと、長谷川さんは真顔で答えた。

「黒糖ときなこのおにぎりです」

「黒糖と、きなこ...?」

「冬は糖分です。あと、きなこは、タンパク質もあります」

冬は糖分、という言い方も、きなこで栄養を語る姿勢も、すべて長谷川さんの世界のなかでは整合が取れているらしかった。

僕らは、そのおにぎりを、分け合った。外は、もう冬の日差しで、会議室の壁に、窓の影が斜めに落ちていた。黒糖のおにぎりは、意外にも、美味しかった。

「星野さん、最近、どう、感じてます? チーム」と長谷川さんが聞いた。

「だいぶ、自分の手を離れてきた感じがあります」と僕は答えた。

「寂しいけど、前より、寂しさを素直に受け止められるようになりました」

「いいですね、それ」と長谷川さんは頷いた。

そのあと、長谷川さんは、珍しく、少し長めの話を、始めた。

「前に一度、ちらっと言ったと思うんですけど、私、昔、同じ月に五人、辞めた現場、見たことがあって」

——はい、と、僕は、少し姿勢を正した。

「あれ、私が、主役を、降りられなかった話なんです」

降りられなかった、と僕は反復した。

「私がそのとき、いたのは、創業期のスタートアップで。私はコアメンバーの一人で、組織づくりを、ほとんど一人で抱えていました。それなりにうまくやっていたつもりで、チームも、初期は、すごく結束が固かった。でも、組織が五十人、百人、って大きくなっていく過程で、私は、ずっと主役のままでいたんです」

「みんなが、私に、判断を仰ぐ。私が、全部の細かいところまで、口を出す。最初は、それでよかったんですよ。私が回さないと、回らなかったから。でも、ある時期から、みんなが、私に、判断を仰ぐことを、やめないほうが楽になってしまって」

「楽、というのは」

「楽、というか、安全です。私に仰いでおけば、失敗しても私のせいにできる。自分で決めなくて済むから、頭を使わなくて済む。私のほうも、仰がれると、なんとなく、居場所がある感じがする。この、相互に『主役の座を離したくない』という構造が、静かに、組織の中に固まりました」

「で、五人、辞めた、と」

「その五人は、みんな、自分で何かを決めたかった人たちでした」と長谷川さんは、静かに言った。「決めたくても、決められなかった。私が、決め続けたから。彼らは、辞めるまで、そのことを、誰にも言いませんでした。みんな、最後までちゃんと働いて、綺麗に引継ぎして、笑顔で辞めていきました。その五人が揃って辞めた月に、私は、ようやく、自分が、彼らの主役の座を、ずっと奪ってきたことに気づきました」

長谷川さんは、そこで、いったん、口を閉じた。窓の外を、一瞬、見た。

「私はそのあと、しばらく、何もできませんでした。それから、少し遠回りして、いまの会社に来ました。あのとき、自分の組織を、外から見て止めてくれる人がいたら、って、ずっと思ってたんです。そういうのを仕事にしてる会社が、あったので。普通のコンサルとは、少し違うんですけど」

「違う?」と僕が聞くと、長谷川さんは小さく笑った。

「外から診断書を渡して帰る仕事じゃなくて、組織の中に、長く、入っていく仕事です。いまの仕事の、一番大事な部分は、クライアントから、自分を、きれいに抜く、ってところなんです。自分がいなくなるときに、何が残るか。それだけを、ずっと、考えて仕事してます」

きれいに抜く——僕は、その言い方を、ノートの端に書いた。

「だから、星野さんが、いま、寂しい、って感じてくれてて、でも、ちゃんとそこに踏みとどまってくれていることが、私にとっては、ちゃんと抜けていける、っていうことなんです。ありがとうございます」

ありがとうございます、と、長谷川さんは、こちらに向かって、小さく頭を下げた。

僕は、どう返せばいいかわからなくて、ただ、黒糖ときなこのおにぎりの残りを、無言で食べた。きなこが、口の端に少しついた気がしたけれど、拭う気にも、ならなかった。


誰かの伴走者に、少しずつ

年が明けて、一月に入った。

長谷川さんは、言っていた通り、出社の頻度を減らしはじめた。一月は、週三日。二月から、週二日。ときどきオンラインで顔を出すが、オフィスで偶然会うことは、だいぶ減った。

長谷川さんが減った分、チームのなかで、僕がやる仕事は、むしろ減った。メンバーが、自分たちでいろいろ回している。

その代わりに、最近、少しずつ変わってきたことがある。

他のチームのマネージャーが、たまに、僕のところに相談に来るように、なった。

「星野さんのチーム、朝の五分、やってるって聞いたんですけど。うちでもやりたくて。どう始めたらいいですかね」

「星野さんとこの、3Good1More、ってあれ、どうやってフォーマットにしたんですか」

「うちのチームで、若手が発言しないんですけど、どうしたらいいと思います?」

最初は、戸惑った。僕は、専門家じゃない。全部、長谷川さんから教わったことで、自分の頭で設計したわけじゃない。そう言うと、「でも、実際に一年半やってるの、星野さんじゃないですか」と相手は言う。たしかに、それはそうだった。

僕は、相談に乗るときの、自分のなかの癖に、気づきはじめていた。

まず、相手の話を、一度、まるごと聞く。途中で口を挟まない。

聞き終わったあと、五秒くらい、黙る。相手の言葉を、自分のなかで、ゆっくり置く時間を作る。

それから、「それ、面白いですね」とか「いい観察ですね」とか、返す。そのあと、自分が知っている範囲のことを、急がずに、話す。

——これ、長谷川さんが、いつも僕にやってくれていたことだ、と、あるとき、僕は気づいた。

気づいて、ちょっと笑った。

笑ったあと、少し、泣きそうになった。


時間が、書き換えていくもの

二月の終わり。

僕は、この本を書きながら、気づいていることがある。

この本を書き始めた頃、僕は、自分が受けた半年の物語を、書いているつもりだった。土と風と回路。長谷川さん。メンバーの変化。——それらを、あとから振り返って、読者に伝えるために書いている、と思っていた。

でも、書きながら、僕は、自分が、もうすでに、次の物語に入っていることに、気づいてきた。

僕のいまの毎日には、相談に乗るべき後輩マネージャーがいる。チームの次世代を考える仕事がある。自分のいないところで、チームが何を作っていくかを、静かに見守る仕事がある。

そして、この本を書くことで、僕は、自分が長谷川さんから受け取ったものを、次の誰かに、手渡そうとしているのかもしれなかった。

こう書くと、格好いい話に見えるけれど、実のところは、もっと地味で、もっと不器用だ。毎週の会議で、僕はまだ時々、手持ち無沙汰になる。新しい相談を受けて、うまく答えられないこともある。長谷川さんがいなくなりつつある距離感に、どう慣れればいいのか、まだ探っている。

でも、そういう不器用な時間の積み重ねが、組織のなかの時間というものの、たぶん、正体なのだと思う。

半年、一年、一年半、二年。数字を並べると短いけれど、そのあいだに、人の配線は何度も書き換わり、組織の水流は流れの形を変え、主役の座はゆっくりと次の世代に渡されていく。

そして、時間をかけて進んだものは、時間をかけてしか、戻れない。これは、たぶん、良いことなのだと、僕はいま、思っている。


でも、これは、この会社での話だ

ここまで書いてきて、僕は、ひとつ、大事なことを書き忘れていたことに気づく。

この本で書いてきた物語は、全部、僕の会社で起きた話だ。

僕の会社は、IT系で、比較的若くて、創業者が心理的安全性みたいな言葉を普通に口にする文化があって、メンバーの平均年齢も若くて、上下の権威関係もそこまできつくなかった。長谷川さんが最初に「土・風・回路」という比喩を持ち出したとき、僕は戸惑ったけれど、拒絶はしなかった。メンバーも、朝の五分が導入されたとき、多少の戸惑いはあっても、決定的な拒否反応は示さなかった。

これは、うちの会社だから、成立した物語、かもしれない。

長谷川さんは、いまの会社との契約が減るのに伴って、別の会社で新しい取り組みを始めると言っていた。詳しい話は聞いていないけれど、おそらく、その「別の会社」は、うちとは違う文化の会社なのだろう。そこでは、同じやり方が、同じように機能するとは限らない。

ここまで書いてきた「土、風、回路」の物語には、書いてこなかった面がある。どんな組織でもこの通りやれば変われるわけではない、ということ。権力距離が強すぎる文化、急性の危機に直面している組織、変革を短期で求める経営層——そういう条件のもとでは、同じ介入が、同じ結果を生まない。ときに、逆効果になる。

次の章では、その、書いてこなかった面の話をする。

COSが、うまくいかないとき。COSを、使うべきでないとき。そして、COSという方法が、そもそも何を保証していて、何を保証していないのか。

このあたりは、物語というよりも、地図の話になる。足場の固い土地と、ぬかるみ。登れる坂と、滑る坂。その境目を、僕が、いまの立ち位置から、見えている範囲で、描いてみたいと思う。

次の章のタイトルを、僕は、「できないこと、してはいけないこと」にしようと思っている。


この章の背景にある概念

誰かの促しがなくても仕掛けが回り続ける状態への移行は、COSでは意志的フェーズから自律的フェーズへの移行——創発の橋——として理論化されています。個人の習慣が、組織そのものの性質へと立ち上がる過程です。

本作はフィクションです。登場する組織・人物は、臨床組織科学(COS)の考え方をイメージしやすくするために創作されたもので、実在のものではありません。下敷きにある理論は、査読論文として公開されています。

創発の橋(Emergence Bridge)

用語集——自律的フェーズ・組織ルーチンほか


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→ 第6章「できないこと、してはいけないこと」

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